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クマが居なくなるとヒトが困る?「クマともりとひと-だれかに伝えたい、いまとても大切な話」

関係ないと思っていた自然保護の必要性

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自然保護や動物保護というのは、余裕のある人間がやっている事だと思っていた。やりたいからやっているんだと思った。もちろん、活動家はその必要性を感じ、活動しようと思って行動しているのだろうが、どうも切迫感みたいなものを感じる事ができなかった。

その理由の1つには、学校教育で散々聞かされていた危機・窮状というのが、実生活には意外と影響が無い事を、学習してしまった点があるだろう。

恐ろしい環境問題は、自分には関係ないという根拠のない自信

社会の時間に教わった深刻な環境問題は、子どもだった私に少なからず恐怖心や焦りを植えつけた。
地球温暖化、オゾン層破壊、森林伐採、それらによる動物の絶滅。
地球が擬人化され、ギラギラと太陽に照らされ、苦しそうに汗をかいているイラストは、「大変なことが起きている」という焦燥感を煽った。

映画「earth」によれば、地球温暖化によって氷河が溶けてしまい、足場を失って溺れ死んでしまうホッキョクグマ達は、まもなく絶滅するそうだ。

ところが、どれひとつとして実生活に直接影響を及ぼす環境問題はないように思う。
地球温暖化?そう言われて見れば真夏の最高気温が年々上昇している気がする。
オゾン層破壊?紫外線が強いと言われればそうかもしれない。でも紫外線で焼き殺された人はいない。
森林伐採?近所の公園には木が植えてあるし、花見の名所だってたくさんある。テレビで見るアマゾンには、豊かな原生林だってあるじゃない。
動物の絶滅で誰か困った人、いる?

実生活に影響がないというだけで、その問題がなくなったわけではない。むしろ、着実に見えない形で進行しているんだと思う。でも、実感や痛みを感じないのだ。直接関係無いものに対して憤ることができる人は、自身が満たされており、周囲に目を配る余裕のある人だと思った。きっと、自然保護運動をしている人達は、精神的・生活的に余裕があるんだろう。そう思ってきた。いわば、他人ごとだった。

明確ではなくても、それでも重要な「何か」があった

家族に勧められ、森山まり子著「クマともりとひと」を読んだ。中学校の理科教師だった著者が、生徒が見つけてきたとある新聞記事を契機に、クマ(が棲める森)を守る活動に名乗りを上げるまでを描いた、ドキュメンタリーだ。

途中までは著者も余裕と知識のある、私とは関係のない世界の自然保護活動家だと思って読んでいた。実際、読み終わった今でもそう切り捨ててしまうことは不可能ではない。ただ、単純に「絶滅寸前のツキノワグマを守ろう」と言っているなら、「クマがいなくなっても困らない」と冷たく言い放つことも可能だ。

でも、「ツキノワグマを守る」という行為の根底には、私達の生活に密接に関わる重要な何かがある気がした。
それが、「水」の問題だ。

国連は21世紀になったとき、「20世紀は人類が石油を求めて戦争を起こしたが、21世紀は、水を求めて戦争を起こすだろう」と発表しました。(中略)こんこんと水のわき出してくる豊かな森の保全・再生なくしては、21世紀、わたしたちは生き残ることができません。

20世紀は「石油」、21世紀は「水」で戦争になるー。

このインパクトは大きい。石油も必要だが、人間の生命を維持するために重要度の高い「水」を奪い合って、殺しあいになるというのだ。

単にツキノワグマ保全の話では済まなくなってきている。

どうして水がなくなるのか

ドキュメンタリー映画「タイマグラばあちゃん」で、ばあちゃんは畑を荒らす動物についてこんな風に言っていた。
「向こう(動物)からしたら、わしらが後から山に来て勝手に畑耕したんだべ」。

「クマともりとひと」にも、同じようなエピソードが描かれている。
氷ノ山のふもとに住むおばあさんの言葉だ。

「わしら、クマさんが棲んどりなさるあの山あから、水もろうて生きてきた」

人間は、これまで、自然に畏怖と尊敬と感謝の念を持ちながら、共生してきた。上手く棲み分けをすることで、自然を食い尽くす事なく、共存していく術を知っていた。

ところが、必要以上の力と人口を持ってしまった人間は、これまで未踏の地として距離を置いていた山の奥地に、ズカズカと土足で入り込んでしまった。豊かな広葉樹林を伐採し、木材として有益なスギやヒノキ(いずれも針葉樹林である)を植林した。これは、第二次世界大戦後に政府が行った「拡大造林」という施策によるものだった。

だが、そのうち外国から安い木材が手に入るようになり、国内でコストをかけて木材を用意する必要がなくなった。また、使える木を育てるには、間伐(間引き)をするなどの定期的な手入れが必要になるのに、それを行わなくなった。不要な植林地に、無駄なコストを費やす訳にはいかないからだ。結局スギ・ヒノキなどの針葉樹林は、そのまま放置されてしまった。

スギやヒノキは根が小さく、降った雨が地表を流れ、蓄えられることなく海へ流れてしまう。そのため、既に阪神間の水道は、今や給水制限直前だと、大阪の営林局の職員が言う。広葉樹林は根がしっかりと張って、森がスポンジのように水を蓄えていた。今はその役割をする森が激減している。思い起こしてほしい。近所にどれだけの広葉樹林があるだろうか。私は関西に住んで10年になるが、相当な時間移動しないと、森にはたどり着けない。見えるのは、奇妙なほど整列した木を持った山ばかりだ。一部がハゲ山になり、赤茶けた土が覗いている事も多い。

どうして動物は里山に降りてきたか

豊かな森がなくなったことで森の動物達はひもじい思いをした。ツキノワグマはどんぐりを食べるが、スギやヒノキの森ばかりで、実のなる森がなくなってしまった。するとこれまで出て来なかった里山に降りてくる。人間は恐怖から害獣としてクマを射殺する。だが、クマも豊かな森を構成する重要な生き物である。クマが絶滅したら、豊かな森の再生は益々厳しくなる。 ((クマの「皮はぎ行為」は樹の幹にウロを作り、ニホンミツバチに巣穴を提供する。獣達が歩く事で地面が柔らかくなり、樹木の根の成長を促進するなど、森を構成するのに必要不可欠なのだそうだ。))

こうして森の保全と再生にとって悪循環に陥ると、果ては水不足まで加速度的に進行してしまう。現に、数十年前と比べると水量が1/3ほどに減ってしまった川もあるようだ。

知ることができてよかった

私達に出来ることは少ないが、知らずに間違った事をしてしまうよりはマシだと思いたい。手始めに、著者が会長を務める「日本熊森協会」のサイトで、情報収集してみるのはいかがだろうか。

実践自然保護団体:日本熊森協会

批判や誹謗もあるように見受けた。だが、実績もある。兵庫県が持ち回りだった全国植樹祭で、県知事へ直談判し、植樹する木を針葉樹から広葉樹に変えた。以降、どの都道府県でも広葉樹をメインに植えることになった。中学生の生徒たちが天皇へ手紙を書き、そのことが「兵庫県のツキノワグマの狩猟禁止命令」の発布に繋がった。

いずれにせよ、豊かな森を守る・ツキノワグマの絶滅を防ぐための方法論については、もっと色々な事例を勉強する必要があるのかもしれない。「クマともりとひと」は、動物との共生・自然との共生について考える契機となった点に於いて、とても有意義だった。

クマを助ける事は人間を助ける事に繋がる。まさに「情けは人(クマ)の為ならず」である。

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