サイトアイコン Webと本 – Webooker(ウェブッカー)

人は人を殺せる。でも本当に人を殺していいの?―「弟を殺した彼と、僕。」


本作は、「半田保険金殺人事件」 ((1984年に発覚した殺人事件。保険金目当てに、共謀した2名により3名の命が奪われた。そのうちの1名が著者の弟である原田明男さんだった。))の被害者遺族(兄)により書かれた、ノンフィクションである。

「死刑制度」という既成概念に疑義を抱く

長谷川敏彦君は、僕の弟を殺害した男です。
「大切な肉親を殺した相手を、なぜ、君付けで呼ぶのですか」
ときどき質問されます。質問する人に僕は、聞き返したい気持ちです。
「では、あなたはどうして呼び捨てにするのですか」
彼が弟を殺したことを知る前から、僕は、彼を君付けで呼んでいました。弟を殺したと知り、彼をどれほど憎んだことでしょう。
「あなたは、僕が彼を憎んだほどに、人を憎んだ経験がありますか」
質問者には、こうも聞いてみたいものです。それともこう聞きましょうか。
「あなたは、僕以上に、長谷川君を憎んでいるのですか」
彼を憎む気持ちと、彼を呼び捨てにすることとは違います。 ((「弟を殺した彼と、僕。」(原田正治著)プロローグより引用))

朴訥な語り口で残酷な内容を語る本作は、まさに死刑制度に一石を投じるものだ。
いや、それほど大仰なものではないかもしれない。
原田さんの素朴で誠実な筆致は、「死刑存置派の意識を変えてやろう」という押し付けがましさは全く感じられない。
だが少なくとも、「殺人犯は死刑にすればいい」と思って疑わなかった我が身を振り返りたくなる。
本当に「死刑」は必要なのか、考え始めた。
これまで「死刑制度」の存在に意識が及ばず、疑問視すらしなかった自分に気がついた。

死刑制度の「いま」

死刑存廃国状況: 廃止国 141/存置国 57(全198ヵ国)
死刑をめぐる世界の状況 : アムネスティ日本 AMNESTY

死刑制度を維持している国の数は、ここ10年で3分の1以上も減少した。(中略)
昨年、死刑を執行した国は、世界198ヵ国の内、わずか10%にあたる20ヵ国であった。
死刑2011:少数の死刑維持国で異常に高い執行 : アムネスティ日本 AMNESTY

世界的な動向としては、死刑は廃止または停止される傾向にあるという。
先進国では日本とアメリカのみが死刑存置。 ((アメリカは州によって異なるため、死刑を廃止または停止している州も複数有る。

※茶色が死刑が執行される州、それ以外が執行されない・されていない州。))
一方、日本では今年の3月に3名の死刑が執行されている。 ((3人に死刑執行 1年8か月ぶり : J-CASTニュース))
死刑存置のまま進んではみたものの、気づいたら周囲は別の主流に向かっていたという、置いてきぼりをくらった感じがするのは私だけだろうか。
(もちろん、マジョリティが進む方向が必ずしも正しいとは限らない。)

原田さんの主張 ― 「被害者遺族」という幻想

悩み、考え続けた結果、原田さんが出した結論は「死刑廃止」だった。
原田さんが主張していることは幾つかある。

  1. 長谷川君と面会することで弟の死について問い糾したい。「なぜ弟でなくてはいけなかったのか」確認したい。
  2. 長谷川君が常に反省し、懺悔している事を、手紙ではなく会う事で確認したい。
  3. 怒り、悔しさ、悲しみを、長谷川君に直接ぶつけたい。
  4. 手紙を書いたり、面会するからといって、弟を殺害した長谷川君を決して赦しているわけではない。
  5. 「虚構の被害者遺族像」を捏造せず、一人ひとりの人間としてみてほしい

1~3は、死刑囚である長谷川君の刑が執行され、既にできなくなってしまった事だ。
一度死んだ人間は生き返らない。取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
弟が殺害されて10年経っても20年経っても、弟がもう二度と帰ってこないことや、家庭や生活が滅茶苦茶にされた事実は変わらない。
たとえ長谷川君が死んでも、遺族はこれから先、やり場の無い怒りや悲しみを抱いて生きていかなくてはならない。

印象的なエピソードがある。
原田さんが死刑廃止を訴えるビラ配りをしていた時に、一人の男性が「あんたらは、被害者の遺族の気持ちを考えたことがあるのか」と言った。
原田さんが実弟を殺された遺族であることを知ると、その男性は一瞬たじろいだ様子で電車へ急いだという。

「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか」と言いますが、彼らもまた考えたことはないのです。一方的に、「被害者遺族は、怒りに凝り固まって、死刑を望んでいる」と決めつけているのだと思います。僕は、彼に「被害者遺族の気持ちに同情するので、死刑に賛成する」と言ってもらうより、被害者遺族の肉声に直接耳を傾け、受け止める時間を少しでも持ってほしい、と思いました。単に、「被害者遺族の気持ちを考えて死刑に賛成する」という声に、僕は寂しさや怖さを感じます。そのような人は、僕のような者を、
「家族を殺された彼らは、平穏に暮らす自分より気の毒でかわいそうな人」
と、一段下に見ていると感じます。 ((本文P195より抜粋))

ハッとし、内心忸怩たる思いを抱く。
ニュースでも、ワイドショーでも、「被害者遺族の気持ちを考えると、極刑に処すべきだ」という論調をよく耳にする。
自分でもそう思っていたが、果たしてそれは本当に被害者遺族の望む事なのだろうか。
とはいえ、原田さん本人も、当初は「極刑しかないでしょう」と公的に発言している。
被害者遺族の気持ちは一概に言えないし、また時とともに変化する。
そんな当たり前の事すら「被害者遺族」という記号の中に埋没していたことに気づく。

人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

本作を知るきっかけとなったのは、

である。

こちらは著者の森氏が、存置・廃止を決めずニュートラルな立場でスタートし、死刑制度の「冤罪問題」や刑場の様子、歴史を掘り下げ、ある結論を出すというスタイルの書籍だ。
もちろん、最初から結論は決まっていたのだとは思う。
だが、制度に疑問を持ち改めて状況を見、迷い、思考した結果、果たして自分が死刑を存置するのか、しないのかを見極めるには、良い標(しるべ)となる書籍だと思う。

原田さんの場合は、長谷川君は殺人犯ではあるが、死刑にして欲しくないという結論だった。生きて、一生かけて罪を償ってほしいという結論だ。
では、「死刑を望む遺族の場合は、執行してもいいのではないか」という疑問も沸くが、「死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」では、それについての答えも用意されていた。
「懲罰・仇討としての死刑は行うべきではない。」というものだ。

副題の

人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

は、単に死刑囚を救うという以外に、被害者遺族をも救いたい、そんな煩悶が垣間見える気がする。

モバイルバージョンを終了